新英語教育講座・第18巻

わたしたちの国際交流・新英研旅行

浅川 和也(埼玉・高校)

I. はじめに
 教師の手で国際交流をつくる時代がきている。世界中、日本人の行っていない所はないと言われている。さまざまなツアーがあり、自分の都合にあわせて、行 き先、日程、費用で好みのツアーを選べる海外旅行専門の雑誌も発行されている。しかしながら、こうしたパッケージ旅行では名所・旧跡を見て歩くだけのもの が多く、また旅の恥はかき捨てに代表されるいわゆる団体観光旅行として批判も強い。また英語教師を対象にした語学研修は多いが、単なる英会話や英語教授法 の研修であって大きく社会、教育をとらえるものとなっていないのが実情ではないだろうか。一方、個人旅行では行動の範囲が限られてくるので何か特別な知り 合いやきっかけでもなければ、心を開いた人と人との交流は期待できない。信頼のおける団体、機関を通じて準備されたプログラムでは「仲間」として迎えられ ることになる。また、コースにしても学ぶことにしっかり焦点をあてたプログラムが望まれるのである。
 古くは旅は真理を求める、求法の巡礼であった。旅、めぐることこそ覚醒である。異文化との出会いは世界観の転換をもたらす。そればかりかわたしたちの草 の根外交によって平和のためにたたかい続ける人々との出会いに限り無い連帯の可能性を見出すことができるのである。
 ヨーロッパを歩けば歴史に直面し、戦争と平和を考えることなる。アメリカ旅行でも現在の躍動するダイナミズムにふれ、民主主義の伝統を体験し、またさま ざまな市民運動の息吹にふれることになる。
 民間教育研究団体の一つである新英語教育研究会(新英研)では1972年に第一回ヨーロッパ旅行を実施し、以降1986年まで 8回を数えている。またアメリカへも旅行団を送っている。将来はアジア・アフリカへの連帯の旅も企画している。新英研の「旅」は研究教育実践の集約でもあ り、「平和」を軸にさまざまな方々との懇談、交流を続けている。また全国からの仲間が集まった旅行団に参加すること自体がたいへん素晴らしい体験であり、 この体験が仲間のそして新英研の実践をさらに豊かにしている。それはまさに「生き方」を求め、われわれの思想を深め、伝える旅なのである。

II. ヨーロッパとの出会い・平和を学び、連帯を求める
 まず、その軌跡をたどってみると、第一回のヨーロッパ旅行は1972年に実施され林野滋樹氏、伴和夫氏の尽力によって成功をおさめた。その目的はまさに 「日本人にとって欧州とは何か、また人間とはなにかへの問いかけ」( 伴和夫: 1972) であったともいう。新英研のヨーロッパ旅行では必らずアウシュビッツ( ポーランドの国情があって行けない場合には東ドイツのブーヘンワルト収容所) 、アンネの家、イギリスを訪ねている。それは新英研の旅行が単なる観光旅行ではなく、平和を学ぶ旅だからである。他にイタリア、フランス、スイス、オース トリア、社会主義諸国をまわった時もある。次の感想はヨーロッパへのある視点を明確にするものである。
 私がこの旅で学んだこと・学んだというよりも、かねてから思っていたことに対する確信を深めたこと・は、ヨーロッパでみてきた二千年の暦が、人間同士の 殺しあいの歴史であったということ。アウシュビッツはもとより、フランスやイギリスの美しい古城の中の牢やギロチン台、権力争いのために血を流した数々の 王家の物語、また、フランス革命で革命を成し遂げた人々が王家や貴族たちの首をもって集まり歓声をあげたというコンコルド広場、そして殺しあいの歴史はあ い変わらず現代に受け継がれ、科学技術の進歩によって殺人のスケールはますますエスカレートし、・・・アウシュビッツを過去の哀れな出来事とみないで戦い のない平和な世界をつくる方法をその中から学びとりたいと思う。」(酒井嘉子・九州大学物理学教室)
 もとよりヨーロッパは芸術に溢れている。クラシック音楽、シャンソンを楽しみ、各地の美術館で本物に対面し、ゴシック建築、ルネッサンスの風景に出会 う。またシエイクスピアの演劇を観劇するなど心の潤いを取し、ヨーロッパ文明の歴史の深さにふれる旅でもあった。以下、特徴的な情景をたどってみることに する。

 (1)平和を学ぶ
・アウシュビッツ
 ツアーに参加した理由を「アウシュビッツがあるから」と答える方が多い。ワルシャワからクラコウへ、さらに西へ60キロ、いまでは国立博物館になってい るアウシュビッツ強制収容所がある。1940年5 月に造られ、1944年11月までに400 万人が虐殺された。一日に25,000体の死体を処理したのである。アウシュビッツはこうした狂気に満ちた人間の行為を忘れないために残されている。建物 のひとつ、ひとつが博物館になっていてサンダルやクツの山、カバン、義足、メガネの山、子供の洋服、靴が並んでいる。「風呂」にみせかけたガス室、死の壁 へと足取りは重く「戦慄が体を走る」思いを訪問者に与えた。ドイツでは加害者でもあり、被害者でもあった戦争の歴史を永久に残している。
・アンネの家
 アンネの隠れ家はAnne Frank Stichtingとして財団が維持、管理し博物館になっているのでアンネと一家の生活が本棚、水道などからしのぶことができる。ビデオでナチズムの歴史 を写し出しており、またさまざまな資料が揃えられている。一方、ネオナチズムに対する姿勢から現在も平和のためにたたかっていることがわかる。後に新英研 から携えた献金にアンネ財団から礼状が届いているので紹介したい。

Dear Friends, 
   We herewith thank you once again for your most generous donation of Yen 2 0,000-. The financial assistance of people and organizations is of utmost im portance for the Anne Frank foundation as it enables us to realize our plans and projects, we remain. 

(2) 交流・連帯を求めて
 なによりも特筆すべきことは、各地の教職員組合と懇談会を持つなど連帯・交流を深めることを続けていることである。第一回では、ワルシャワ空港にオコー ン教授によって出迎えを受け、ワルシャワ大学を訪ねポーランドの教育制度について学んだ。また、オットー・フランク夫妻と会い、当時刊行された副読本 "English for tomorrow"や生徒の文集を贈呈した。その時の様子は「話題は尽きず、人種差別、戦争と平和、ユダヤ人問題、黒人差別と広範囲に及び、一を聞けば十 を答えるふうだった。大戦後の四分の一世紀の時の推移はこの有為の人を老境に導くと共にナチスとヒットラーへの怒りを昇華し、これが基盤たるファシズムへ の戦いへと駆りたて、アンネ財団の運動を世界中に展開すべく論調は真剣そのものだった・平和運動の同志への呼びかけのごとく。」( 伴:1972)であった。さらにオットー・フランク氏との交流は続いたが、1980年 8月、91才で逝去された。以下、伴氏への手紙を紹介する。

Dear Mr. Ban, 
   Thank you very much for your kind letter and all the material about the grand meeting of the English teachers you sent me. I read everything which was  written in the English Language with great interest and I was glad to m ake out from everything you sent me that the meeting was a big success. your opening speech was really very good and surely encouraged all the members t o make big effforts in their English teaching. I was very pleased to learn that Anne's Diary is used in many ways for your teaching and her ideals about world peace and understading are widely p ropagated.
   You surely have heard that ABC is preparing a documentary-animation fil m called "Anne's life and dreams" which will have its opening on September 2 8th in Tokyo. I think that it will meet with much interest in your country... 
    
September, 5. 79
Yours amicably
Otto. H. Frank

また、危険を侵し、貧しい食料事情をおしてユダヤの人々を守ったオランダの人々、すなわちミープ・ギース夫人は『新英語教育』に"My Memories on Anne Frank" として次のように寄稿している。

"My Memories on Anne Frank" 
 Miep Gies
 Amsterdam, September 3, 1979 
    No doubt, you all know Anne already from what she wrote. It must howeve r be clear to you that such an intelligent girl who during twenty five month s lived isolated from the world outside and was surrounded mainly by adults who all had their own problems, could not really express herself to them, no t even to her parents. As her father declared later, her deepest thought, he r inner-self were also for me a closed book.
    As I experienced her in daily life she was always very friendly, smilin g, always ready to help out with office-work, which she then did in the Secr et Annexe. But her remarks were always keen and to the point, that really st ruck us. She was always very curious, asked for everything that went on outs ide. To give you an example, it way my task to go up to the Secret Annexe fi rst in the morning to pick up the shopping-list, ask if anything in particul ar was needed, and bring news from the world outside. When I entered nobody said anything and waited what I had to tell, except Anne who asked very chee rfully: Hello Miep, what's the news? This very much to her mother's embarras sment as the Van Daan's often complained and said about the children's educa tion that Anne and Margot were brought up too freely. Mr. Frank sometimes to ld me about these problems, he had to tell some one, and he knew I would not tell anyone about it.
( 新英語教育1979年11月号、・特集『アンネの日記』の周辺と英語の授業・所収) 

 国内ではAnne's Rose Chapel、「アンネのバラ教会」が西宮市甲陽園に1981年にでき、アンネの遺品やユダヤ人関係の品を展示しており、オットー・フランク氏の手紙集も 見ることができる。また関西の新英研のメンバーの手によって原水禁大会に訪れたオランダ平和代表団を迎えるなど、交流は続いている。
 また、斉藤美代子(東京・中)氏はロンドンのスピーカーズ・コーナーで平和、人権の問題に関してスピーチをし、発信型の旅へ転換を試みている。
 最近では磯山氏瀞一氏のPauline Slaterさんとの文通からロンドンでCND, Campanign f or Nuclear Disarmamentとの交流を実現した。交流会では「英国の平和教育はどのようにされているか」といったような質問から熱心な討論が行われ、関係者か ら平和教育の実践を英文で送って欲しいとの依頼も受けた。Pax Christi の事務所を訪ねお互いの活動の展望を話した。Pax Christi は正式にはInternational Catholic Movement といい、第二次大戦後にカトリック協会とは独立して設立され、年間一人9 ポンドの会費とバザーの売上、カンパと協会からの若干の援助によって運営されている。地域の平和教育を中心に北アイルランド問題の解決、軍縮への運動、東 西の交流をすすめており、世界中に16の支部を置いている。
 イタリアではボローニャで市の職員と革新の伝統や原子力発電所の問題、学校教育のことなどが話題になった。
 またオランダは反核、平和運動の大きなひろがりがあることで知られているが、IKV, I nterkerkelijk Vredesberaad= Interchrch Peace Councilの本部で運動の様子や情勢、平和教育、SDI について二時間にわたり交流を行った。 IKVは1966年アメリカ合衆国の巡行ミサイルのヨーロッパ配備計画に対し不安を抱いたオランダ市民が、ミサイル配備は国民の討議で決定すべきことであ り、政府は国民の決定に従うべきだという世論を盛り上げていった。その時にプロテスタント、ローマカトリックの両教会によってIVK が設立された。各地域で子供から大人までを対象に討論や平和教育が粘り強く行われたおり、現在では結集するグループは700 にものぼっているという。
 こうした交流のなかで明らかとなったのはいずれも子供たちに対する平和教育を重視していることであった。まさに歴史に学び未来を拓く教育である。また、 平和教育が戦争反対、戦争の恐ろしさから説くばかりでなく、人種の違い、思想、宗教の違いをこえて人間どうしが仲良くすることの大切さ、他との問題を暴力 を用いないで解決する方法を教え、争いを避け、平和をつくっていくような人間をそだてることこそ教育なのであり、それが共通の願いなのである。

III. アメリカへ・自由と民主主義の伝統を学び、草の根のネットワークをつくる
 ヨーロッパ旅行に比べ、アメリカ旅行はそれほど人気がなかったようだ。おそらくロマンチックで歴史を学ぶことのできるヨーロッパに比べ、アメリカ合衆国 は歴史の浅い国なので、なかなかアメリカを訪れる意義を見い出せないのかも知れない。もっとも語学研修が目的ならもっともっと安く行けるツアーがたくさん あることも事実である。しかし、アメリカ合衆国の根強い反核や平和の運動と交流がすすむ中でそうしたダイナミックな運動との連帯を求めることを眼目に、 1985年に「手づくりの国際連帯実践、キング牧師、ピートシーガの魂にふれる、独立宣言のひびきを聞く、教材づくり、アメリカの' 愛と真実' にふれる」旅が阿原成光氏によって構想された。それは「・黒人公民権運動の偉大な指導者  キング牧師とワシントン大行進の演説「I Have A Dream」・アメリカの反核のうねり・The quiet revolution in the U.S.A.・アメリカ独立戦前の世界史的意義・フランス革命をはげましたDeclaration of Independence ・アメリカの民衆の魂をうたうfolk singe r ピートシーガー」といった事前講座の内容からもうかがうことができる。

 (1)草の根の交流・連帯
 児童文学家で副読本として桐原書店、啓林館から出版されている『サダコと千羽鶴』の著者、エリノア・コアさんが1985年の春、東京、広島、長崎を訪れ た際に新英研と交流を深めた。また同年夏、シアトルのミリオンクレインズが訪れた際の交流からわれわれが合衆国へ行く時に再会することを約束した。アメリ カ旅行は合衆国を西から東へ横断していく、その先々で数々の交流を実現し将来の交流・連帯の方向性をさらに確かにしていくことになった。
 合衆国の西海岸では新しいムーブメントが胎動している。サンフランシスコでは次のような Glide Church 教会での社会事業の様子を見ることができた。
 「サンフランシスコにも多くの失業者があふれていた。このような人たちのために活動しているのが、グランド・メメリアル・メソジスト教会のセシル・ウイ リアムス牧師である。ウイリアム氏は平和運動や数々の慈善活動をしている人である。例えば、先ほど述べたような失業者のために食事を用意しているのであ る。私たちが教会に着いたのは夕食時だったので、列をつくって自分の順番がくるのを待つ人たちを見ることができた。また、実際に食事をしている様子を見る ことができた。多い時には一日に千人以上の人が列をつくって食事を待つという。そして、この活動は大部分がボランティアの人々の手によって行われているの である。資金は寄付でまかなわれているという。
 職がなく、住む家もなく、公園や街角で暮らしている人たち。この教会には着る物もそろえてあった。日本ではとても考えられない活動だ。一日に三回、月平 均六万食用意するというのだ。多くのボランティアに支えられた活動だとはいえ、貧しい人々にこれほどまでの愛情を注げるものだろうか。この教会ではウイリ アムス氏やボランティアとして働く人達の温かい心に触れることができた。また同時に、アメリカ社会が抱える問題の一面を見た思いがした。」( 遠藤憲晃・北海道) 
 それはまさに貧困への挑戦、たたかいの実践であった。またサンフランシスコでは日系のCarl Yoneda 氏と懇談した。自伝的著書『がんばって』は大月書店から出版されている。またChildren As The Peacemakerを訪れた。
 フィラデルフィアではAmerican Friends Service Committeeと交流した。AFSCはクエーカー教徒による平和運動団体で全米に9 つの地域センターを持って活動している。反核、平和といったことの他に飢餓の救済などの多くの分野にわたる運動を展開している。シアトルでは先のミリオン クレインズとの再会を果たした。
 87年にはシアトル郊外、セントラリアでホームステイをすることができた。これは86年にセントラリアの高校生が千羽鶴をたずさえて来日したが、各地の 新英研の会員の手であたたかい交流を実現することができた。京都では角田郁子氏の勤務する宇治高校の合宿所で生徒とのホームルーム合宿をし、広島では、栗 栖洋氏のはからいで高校生の家へ泊めていただいた。東京では中央常任委員の自宅へ泊まるなど草の根の平和外交でもあった。次の年、そのつながりからこころ よくわたしたちのホームステイの申し入れを受け入れたものであった。これは単なる斡旋によるものではなく、息の長い交流の上でのホームステイプログラムで ある。
 セントラリアは静かな田舎町で、ファミリーと農産品、牛、豚、馬、農耕機械の展示でにぎわうカウンティ・フェアを訪ねたり、ホストらによって準備された スケジュールに従って、Steam Plant(火力発電所) を見学したり、セントヘレナ火山のビジターセンターを訪れた。話題は教育のこと家族のことで、子供たちがマンガやTVに夢中になって、勉強をしないといっ た悩みは同じであった。
 アメリカ合衆国では平和運動や地域活動に献身的にかかわっている人々と心から交流し、民主主義の伝統の底力を肌で感じることができるのである。

(2) 自由と民主主義の伝統を学ぶ
 アトランタではThe Martin Luther King,Jr., Center キング牧師の記念館を訪れコレッタ夫人と会見した。まさにキングの魂にふれる思いであった。また、普通では入れないキング牧師の墓に献花をし、英語教育に おいても"I Have A Dream"の実践を通じその精神を学び広めていくことを誓った。そしてキング牧師が説教をしていたというEbenezer Bap tist Chrchでの礼拝に参列し、その熱狂的な雰囲気も味わうことができた。首都ワシントンではリンカーンメモリアルをはじめ当時をしのばせる建物をまわり教 材への見識を深めた。ここでも草の根の運動にめぐり会うのであった。
 「ホワイトハウスの前にLafayette Parkという公園があるが、そこPEACE PARKと名付け多くの反核スローガンを書いた看板を置き、レーガン大統領を24時間監視(VIGIL) している人たちがいる。この運動の正式名は"White House 24-hour Anti-Nuclear Vigil Since June, 1981" である。ここに陣どっている女性の話では過去四年巻に16回も逮捕されたそうである。「公園ではキャンプしてはいけない」という規則があり、毛布を使うだ けで「キャンプをした」ということになって捕まるのだ。このよにうに野ざらしの生活のためその女性はまっくろに日焼けしていた。それでも"The lst A mendment"(憲法修正第一条)=( 言論の自由) を武器にしてがんばるのだそうである。... 「grass roots のアメリカ」を確認して心強く思った。」( 柳原三男・熊本)ニューヨークでは、アメリカのフォーク界と長い交流をされている矢沢寛氏の尽力で“We Shall Overcome"をつくったピート・シーガーに会うことができた。ピートは「"We Sh all Overcome" のWeは単なる私たちではなく、全人類を思い、ともに働くことを信じて歌った」と語った。この話は高校教科書「COSMOS 1. 」に収録されている。その歌のできるまでは芸術家の言葉へのこだわりを見る思いである。以下、その記録である。
 「"We Shall Overcome" は80年前にPhiladelphiaの黒人牧師が古いAfrican tradit ion を基に賛美歌として作ったもので、その時はI will overcome some day とうたわれいていた。その後何度も黒人も白人たちによって歌が少しずつ変えられた。1926年にはSouth Carolinaのタバコ栽培労働者がストライキに時にうたったり、また1956年にはPete Seeger がGuy Carawan という若い歌手にこの歌を教えると、彼はいくつかのverse を付け加えるというようなこともあったが、またベトナム戦争で大量虐殺を強行したJohnson 大統領がこの歌を"We will overcome"とうたったりしたことから一部の黒人たちはこの歌をうたわなくなったという話もあった。いずれにしても"We shall overcome..."という詩でうたったのはPete Seeger 彼自信であったようだ。この歌はもともとゆっくりしたテンポの歌であるが新しいフォークソング歌手たちによって少し速いリズムを加えてうたわれるというこ とにもなった。
 "Where Have All the Flowers Gone?"はPeteさんがショーロホフの「静かなるドン」を読んで、その中に登場する兵士たちが歌ったいる詩からヒントを得てつくったものである。 "Long time passing" という一行は彼が乗った飛行機がOhioの上空をとんでいた時に座席にいて思いついたという話もしてくれた。"We shall...""Where Have..."の二つの歌についてめったに聞くことができない話をPeteさん自ら語ったくれたのを直接耳にすることができて大へん幸運だった。」( 星野保雄・東京) 
 菊地俊之氏(群馬)は生徒の便りを持参したが、その後ピートから返事が届いた。ピートとの連帯は生徒をも結びつけ、授業実践を射程に入れたものとなっ た。

Dear Friends, 
    Congratulations on learning the English language. Keep in mind that Eng lish was put together out of two or three or more other languages as a resul t of 2000 years of warfare and invasions in Europe, and now the language is still being added to by other people who are using it in North America and e lsewhere. 
    Consider that the knowledge of a language is an important tool in helpi ng to bring this world together and make it a decent place for all people to live and share. If we do not learn to do this, there will be no world at al l for anybody, that is certain. 
    There is a possibility that I will be visiting Japan in the summer of 1986. I hope I will be able to see you then. 

 この便りにあるように翌年ピートは日本にやってきた。新英研のメンバーである友松利英子( 東京・中 )さんが誠心誠意、通訳として全行程を付き添った。東京では國弘正雄氏も交え歓迎会を持ち交流を重ねた。また、87年にはピートの住むハドソン川、上流の ビーコンを訪ね、ピートのヨットでクルーズしながらCLEARWATER、ハドソン・リバー・リバイバルの運動によって10年前までは魚も泳げないほど汚 れていたハドソン川がきれいに魚もとれるようになったとピートは語った。今もたたかうピートは健在である。
 こうした交流のプログラムがちりばめられた新英研・アメリカ旅行ではあるが、もちろん参加者によって学ぶ視点は様々である。ニューオリンズでジャズに惚 れ込み、ニューヨークを靴の底が減るほど歩くなど、人様々である。また、国連本部を見学すると世界各国からの職員が働いていることがわかる。それは grobal communityの体験でもあった。ボストンは東部で最も古い歴史を持つ都市の一つであり、また反核の運動の中心でもある。歴史的に意義深い建物や記念 碑などをフリーダム・トレイルに沿って見学し、郊外にあるハーバード大学を訪ねた。
 アメリカ合衆国にはたくさんの顔があり、アメリカ合衆国は広い国である。そして文化、人種のメルティングポット、いやモザイクを体験することができるの である。その体験は次のような新たなる課題を突きつけている。
 「・・・私はもちろんキング牧師について話かけてみる。客の日本人の口から突然キングの名前が飛び出して、運転手はガゼン張り切った様子。自分が若かっ た時毎日のようにキングとともにデモ行進をしたこと、キングがどんなに偉大で黒人が彼をどれだけ尊敬して彼の死を悼んだか。そして何よりも自分たちの生活 がこの20年でどれほど変わったかということを熱っぽく語ってくれたのだった。もちろん黒人差別のもっとも激しかったアトランタの街にさえ今、表立った黒 人差別はみられない。バスに、もはや黒人席、白人席があるわけもなく、トイレや劇場やレストランにWhite 用とcoloured 用があるわけでもない。にもかかわらず、注意深くアトランタの街を見渡してみても白人と黒人が一緒に歩いたり話し合ったりしている風景を一度もみることが なかったというのは単なる偶然だろうか。一たび何か起きると、たとえば白人と黒人が結婚するというようなことがあると、たちまち、黒人に対し電話や手紙、 はては投石などというイヤガラセのつぶてがワッと押し寄せたりするのだという。・・・アメリカはキングの時代から確かに変わった。マイケル・ジャクソンや カールルイスのまぶしいような存在、アフリカ飢餓救済や南アフリカのアパルトヘイトへの抗議行動への先頭に経つ有能な黒人シンガーたち、しかし南部や New Yorkの一般の黒人大衆のありようはホントのところはどうなのか? 旅の間ついてまわった私のこの疑問はもとより駆け足旅行の中でとけるはずもなく帰国しての私の新たなる課題となった形だ。」( 竹内みどり・東京)

IV. まとめに
 新英研は海外でも人と人の交流を重ね、信頼を築いてきている。こうした信頼関係から市民のネットワークができてくるのではなかろうか。われわれが何かか ら学ぶという姿勢ではなくて、お互いに学びあう、共に行動をするという方向を目指したい。教師としての教育実践を共有しつつ彼の地の同じように平和を願う 教師、市民との共同行動を始めたい。その時、英語は大きな武器になるのである。民間教育研究団体の中でも英語教師が結集している新英研はまさにそうした先 鞭をつけている。アメリカ合衆国から、さらにフィリピンからインドからそしてアフリカ諸国、ラテンアメリカ諸国から新英研を頼って民主的な教師がやってく る日は遠くない。きびしい中で日々たたかっている教師、生徒たちが国境を越えて交流し、未来を拓いていく。これこそわたしたちの国際交流である。
( この論稿をまとめるに際して参加者が書かれた多くの紀行文を参考にさせていただいた。ここで謝意を表したい。) 

交流先連絡先リスト:

*AFSC,American Friends Service Committee, National Office:
 1501 Cherry St. Philadelphia, Pennsylvania 19102
*Anne Frank Stichting::
 Prinsengracht 263 1016 GV Amsterdam, Netherlands
*アンネバラの教会:
 〒662 兵庫県西宮市甲陽園西山町 4-7、・ 0798(74)5911 ( 一般公開は土曜日) 
*Children As a Peace Worker: 
 Ms. Pat Montandon, 999 Green Street, San Francisco, CA. 94133.
*CND:
 22-24, Underwood Street, London N1 7JQ
*日本の平和教育については: 
 Mr. J.P. Allen, 21 Hampton Rd. Forest Gave, London E7,
*CLEARWATER: 
 112 Market St., Pughkeepsie, N.Y. 12601 
*IKV:Interkerkelijk Vredesberaad, Interchrch Peace Council:
 2502 ES, The Hague, The Netherlands 
*The Martin Luther King Jr. Center for Non Violent Social Change, Inc. 
 449 Urban Avenue, NE・Atlanta, Georgia. 30312 
*Million Cranes Project: 
 c/o Ploughshares, P.O. Box 1746 Seattle, WA 98111 
*Pax Christi:
 St .Franscis of Assisi centre, Pottery Lane, London W11 4NG 
*Peter Seeger: 
 Box 431, Beekon N.Y. 12508
*White House 24-Hour Anti-Nuclear Vigil Since June, 1981- :
 P.O. Box 4931 Washington, D.C. 2008